青色世界の肌色思考



 この世界の空は低い所にある。青と白の無数のドットで埋め尽くされたそれは、一種異様な光景だったかもしれない。だが、その世界に生きているものはたった一つの個体だけだったのだ。故に判断の材料はそれだけしかなく、かつ思考を比べるべき相手もいないというのならば、それが変わっているなどと誰が思うだろうか。否、思いはしないだろう。その世界に生きている彼――彼女だかにとってはそれが全てであり、絶対なのだ。
 その一つだけしかいない個体は、その世界の半分以上を占める大きさだった。紺色の大地をその大きく扁平な足で踏みしめ、ほんの少し体を伸ばせば空色の天井へと届きそうなほどだ。唯一絶対の思考を持つ彼――そう、仮に彼としておこう――はその世界で特に何をするでもなく、そこに在った。意識は微かにあるが、働かせる必要がないのだ。今までも、そしてこれからも。そう彼は思っていた。世界とは絶対不動のものであり、その世界にある思考することの出来うるものは彼だけであったからだ。
 しかし永遠に変化のないと思われていた世界を突然大きな揺れが襲った。今まで多少の揺れはあったものの、今回の揺れの規模は今までとは桁が違っていた。空色の天井がそのまま崩れ落ちてきて彼を押しつぶしてしまうのではないかと思わせるほどに。
(これはまずいぞ)
 彼は長くの間働かせていなかった思考を開始した。自分という存在に危機感を覚えたためか、本能が刺激され生きるための思考を開始したのだ。その揺れは未来永劫続くのではないかと思わせるほどの強大な揺れであった。空色の天井も紺色の大地もぐらぐらと揺れ、その上に乗っている彼の体は意識に関係無く翻弄された。衝撃の最中、何かが彼の体を走り抜け、続いて強烈な痛みが襲った。
(いったい何が起こったんだ)
 痛みの最中必死に状況を把握しようと努めるが、強大な揺れがそれを許さない。やがてしばらくするとその揺れは唐突に収まった。まるで台風の目に出たみたいな急激な変化であった。彼はひとまず安堵のため息をはくと、痛む身体を堪えて自身を取り巻く状況の把握を始めた。彼は軽く辺りを睥睨してみたが、特に世界に変化はないようだった。空色の天井も紺色の大地も元の形状を取り戻し、揺れの前となんら変わりはしなかった。先ほど彼の体を襲った痛みもすでに癒えたのか、なんら感触はない。
(やれやれ。大変な事態だったが、どうやらおれは無事らしい)
 彼はそう結論付けるといつものようにじっとその世界に鎮座していようと思ったが、そこで予想外の事態が起きた。
(やいお前。なんで俺の場所にいようとするんだ)
 唐突に彼の意識していなかった言葉が発せられた。この世界には彼しかいないはずなのにだ。その声に驚いて振り向くと、今まで見たこともない奇怪な生き物がそこにいた。いや、正確には生き物と呼べるものなのかはわからない。何しろ彼はこの世界で唯一の存在であったし、生物と非生物の明確な違いなど教えてもらったためしもないのだから。ただ、目の前の存在が言葉を発したらしいということから、なんとなく生物であろうと思っただけだ。この世界で言葉を話せるのは彼だけであったため、言葉を話せるものは生き物であるという方程式が彼の頭の中には存在していたのである。その奇怪な生き物は体の半分ほどはしっかりとした形状を保っていたが、残りの半分はまるで途中からねじ切られたようにぐしゃぐしゃの肉を露出させている。
(何度も言わせるなよ。そこは俺の場所だ。さっさとどきやがれ)
 その生物は汚い言葉遣いで彼を恫喝しているらしかった。それが怒りだという感情だと彼には理解できなかったが、何となくその生物の言おうとしていることはわかった。
(何を言っているんだ。おれはずっとこの世界のこの場所に居たんだぞ。急に現れた君なんかに渡すものか)
 そう彼が言うと、相手は呆れとも怒りともつかない表情を浮かべた。
(お前こそ何を言っているんだ。君が急にその場所に現れたんだぜ。この世界は俺のものだ。新参者はすっこんでろ)
 言うが早いかその相手はその奇怪な体の一部を振り回して彼を殴り飛ばした。同時に彼の体の一部がえぐり取られ、彼の足だった部分がぐしゃという音とともに遠くに吹っ飛んだ。彼はその時に走った電撃のような痛みに声を上げた。
(畜生! いきなり何をする!)
(当然のことだろう。いきなり俺の場所に入ってきた奴に制裁をして何が悪い)
(畜生! クソったれめ! お前があくまでもそう主張するならおれもやり返してやる!)
 叫ぶが早いか彼は腕の部分を振り回してその生き物に強烈なパンチをお見舞いした。その衝撃で相手の叫び声とともに体の一部を吹き飛ばす。
(よ、よくもやってくれたな盗人め!)
(いきなり言いがかりをつけてきたそっちが悪いんだろう!)
 彼の頭は急速に回転し、進化していた。言い争うことのできる相手も居なかった今までと違い、目の前にはそのための存在がいるのだ。このドームのような世界で二つの思考回路が生まれている。そして初めて彼は怒りという感情を得て、思考し、いかに相手を攻撃するかということに全思考を傾倒させているのだ。怒りという感情がアドレナリンを分泌し、痛みを全く感じさせない状況を作り上げ、それがお互いの現在の状態を作り出していた。お互い口汚く相手を罵りながら殴ったり蹴ったりを続け、その都度体の一部が削り取られあたりに散乱していた。目玉がえぐり取られ、手が第二関節から肉ごとちぎれ、頭が吹き飛び、腹部に大きな風穴があいた。気づいた時にはお互いの体の大部分はあたりに散乱し、肌色のごみためみたいになっていた。
(畜生! なんてしつこい奴なんだ!)
(それはこっちの台詞だ! あたりに体が飛び散ってしまったじゃないか!)
 お互い体の大部分がなくなり、ぐちゃぐちゃの肉が露出していた。このまま続ければどちらかが粉程度の大きさになるまで続くだろう。そうお互いが思ったとき予想だにしなかったことが再び起きた。
(そこは俺の場所なんだ。どいてくれないか)
(何を言うんだ。僕の場所だって)
(いやいや。私の場所に決まっているだろう。最初からいたんだからね)
 吹き飛んだ体の部分がそれぞれ思考を持って話し始めたのだ。一つ一つは小さな個体で、醜い恰好のものが多かったかが、ぐちゃぐちゃのそれらはしっかりとした思考を持っていた。
 争っていた二人はその時になって理解した。もともとは一つだった体が知らず知らずのうちに揺れの最中で分化したのだと。そのためにそれぞれが元の思考を有し、自らのいた場所についての思考を持っていたのだ。分化したそれぞれの者たちは今まで彼が使うことのなかった思考回路を形成し、まるで独自の生命体であるかのように思えたのだ。怒り。冷静。そういった感情が特化して形成されたのだ。つまるところこの世界の中で結局彼は一人だった。別に新たな生命体が生まれたわけでもなく、ただ一人なのだ。しかし彼は偶然の状況によって多くの自分と対話するという機会を得た。これは彼にとっては今までになかった大きな進歩であり、これからを感じさせるものでもあった。
(おれたちは一つなんだ。同じものから分化した存在だったんだ)
 彼がそう厳かに宣言すると、周りで言い争っていた連中もぴたりと話をやめた。
(おれたちは、一つだったんだ)
 再びゆっくりとした口調で彼が宣言すると、周りの連中もしきりに頷いた。
(そうだ。俺たちは一つなんだ。何も恐れることはない)
(僕たちは一つなんだ)
(私たちは一つなんだ)
 個であって全。全であって個である彼らはそのフレーズを唱和し始めた。
((俺たちは一つなんだ))
 この世界が始まって初めての複数思考の誕生は、その響きを空色のドット天井にこだまさせ、紺色の大地を震わせた。永遠に変わらないと思われた世界に唐突に現れたその変化の中でその唱和は響き続けた。例えるならば静かな曇り空の中にさした一筋の天使の梯子。大海に漕ぎ出す一艘の舟のようだった。彼はこれからもっと明るい変化が生じるに違いないと信じていたし、また彼の分化した存在もそうであった。
 その時、再び揺れが襲った。彼らはその揺れに翻弄されたが、きっとそれが何かの変化であると本能的にわかっていた。その揺れは激しさを増し続け、空色の天井に風穴を開けた。眩しいばかりの光がその中から差し込み、光り輝く黄金の何かが現れた。彼らはその存在に驚き、逃げ戸惑ったが、その何かは彼らすべてを包み込んだ。感じたことのない不思議な感触に彼らは驚き、また何故か安心した。彼らは思考というものを手に入れたのだから、きっと選ばれた存在なのだと。そうして選ばれし者は違う世界へ旅立つ権利を与えられるものなのだ。そう信じて彼らは次の世界に向けて、ゆっくりと思考を閉じた。


「しまった! ポケットに入れておいたビスケットが!」