剣の先に映るもの:四章



四章 「待った!」
「また待ったですかあ?」
枯朝さんの言葉に僕は疲れた声を出す。
食後僕は縁側でお茶を飲みながら枯朝さんと将棋をさしていたのだが、枯朝さんの弱さといったらとても強いとは言えるものではなかった。
というより、むしろ、弱い。論外。
自分でひどいことを思っていると自覚しつつも、そう思ってしまう。
何しろ最初に動かす駒が王将なのだ。
枯朝さん曰く、「最初に大将が動かないなんてへんじゃねえか!」らしいが、僕は共感できるような気はまったくしなかった。
確かに実際の戦闘において大将が動かなければいけないことは聞違いないが、いくらなんでも王将を一番多用するのは将棋ではないだろう。
僕らのさしている将棋版の横では咲夜ちゃんが本を片手に興味深そうに覗き込んでいる。
「お兄ちゃん弱いねえ」
「ぐはっ」
僕がいえなかったことを咲夜ちゃんはさらっと言ってしまった。
その単純でありながら強烈な胸をえぐる言葉に枯朝さんは悶絶する。
哀れだ。
しかしその原因は僕ではない、と思う。
「もうちょっと落ち着いてさせばいいんだよ。とりあえずこれでも食べて落ち着いてみれば?」
そういうと咲夜ちゃんはどこから取り出したのか柿を枯朝さんに渡す。
枯朝さんはしばらくそれを見た後、やけになったようにがつがつとかぶりつき、あっというまに種だけとなった柿を庭にほうり捨てる。
「あ! お兄ちゃんいけないんだ〜!」
「うるさい! 今日は運が悪いんだ!」
枯朝さんはそう絶叫するとやりかけの将模台をほうっておいたまま逃走した。
「ふん。あの軟弱者めが」
ふいに後ろから声が聞こえたので、振り向くとそこにはいつのまにか清十郎さんが立っていた。
清十郎さんはため息を一つつくと、僕たちのほうに顔を向ける。
「奴はめっぽう将棋や囲碁が弱くてな。今まで二十手以上もったことがない。それに比べて塔馬君はなかなか強いじゃないか」
「いえ、そんなことは……」
僕は恥ずかしくなって頬を掻く。
「どれ、私とも手合わせを願えるかな?」
「望むところです」
こうして第二回目の勝負が始まった。

枯朝さんとはさすがに比べられないほどに強かった。
といっても比べる対象があれなので、それほど極端に強いというほどでもない。
実際今のところの戦績は二勝一敗と、僕の勝ち越し状態だ。
「むぅ……」
清十郎さんが唸る。今の勝負も僕のほうがある程度優勢だ。
「お父様も弱いねぇ」
「くっ……」
咲夜ちゃんのこれまた容赦ない一言で清十郎さんは悔しげに顔をしかめる。
「いえいえ、なかなかお強いですよ」
実際僕が手加減できるほどの余裕は無い。
清十郎さんは悩んだ末に左の桂馬を動かした。
桂馬の高上がりとはよく言うが、場合によっては重要な戦術となりうる。
「ふむ……」
僕はその手に対してあごに手を当てて少し思案すると、持ち駒から新たな手を打つことにした。
「……ん?」
持ち駒を使おうとして将棋版の横を見ると、ふと何か光るものを見つけた。
気になってそれを拾い上げてみると、それは銀製の小さなロケットだった。
「これは誰のですか?」
僕が何気なく聞くと、清十郎さんと昨夜ちゃんが一瞬顔を歪める。
しかし、ロケットを見ていた僕は気づかない。
「……それは枯朝のものだ」
僕はその言葉になんともいえない好奇心に駆られた。
「あけてみてもかまわないでしょうか?」
僕がそういうと溝十郎さんと昨夜ちゃんは顔を見含わせると、しばらく逡巡し、僕のほうを向いて頷いた。
僕は頭を下げると、そのロケットを開く。
そこには美しい女性の写真が入っていた。
どことなく咲夜ちゃんに似ているが、咲夜ちゃんと違う漆黒の髪は肩で切りそろえられている。
年齢は十五ぐらいだろうか。
慈愛に満ちた目で下のほうを見下ろしているが、何を見下ろしているかはロケットの縁で切り取られていて分からなかった。
「これは誰ですか? 美しい人ですね」
「……知らん。枯朝のものだからな」
それもそうか。
僕は納得すると、それをポケットにしまった。
「枯朝さんに渡しておきますね。これで詰みです」
僕はそういって持ち駒から飛車を使って王手を仕掛けると、その場を後にした。

将棋は確かに頭を使う楽しい知的遊戯だが、それでもやはり体を動かさないという点で剣道の楽しさとは異なるものだ。
僕は日課である稽古をするために外にでた。
竹刀を正眼に構え、素振りを始める。
目は閉じ、相手の姿をイメージする。
今すぐにも僕に打ち込んできそうな幻影が僕のまぶたの裏側に映った。
こういう時、決まって僕がイメージする相手は祖父だった。
いつか越えたい、でも越えたくないのかもしれない目標。
それに向かって打ち込む。
僕の練習用の竹刀は備前長船と共に竹刀袋に入っているものだ。
ただ、竹刀とはいえ、その竹刀には鉄芯が入っており、普通の刀よりも重いというまさに練習にはうってつけのものだ。
因みに普通の人がこれで素振りをしようとすると数本目で脱臼すると思う。
そうして素振りがちょうどノルマである五百回を終えたとき、後ろのほうから近づいてくる気配を感じた。
竹刀や刀を握っているときは普段より精神が緊張して五感が優れるため、気配を消しているつもりでも今の僕には分かる。
「咲夜ちゃん、なんのよう?」
僕はそう後ろから気配を消して近づいてきた相手に声をかける。
「あれ? おっかしーなー。気配は消したつもりだったんだけど」
「いや、気配はちゃんと消せてたよ」
僕はそうフォローを入れる。
しかし咲夜ちゃんは何故僕が接近に気がついたのか全く分からない様子だった。
「それで、何のようだい?」
「あ、そうだった! あのね、稽古をするんだったら道場を使ってもいいよ、ってお父様が」
僕は少しその言葉にびっくりする。いくら一緒に住むことになったとはいえ、まかりなりにも他流派の僕を道場に入れていいものだろうか?
しかし、いいといっているんだから好意に甘えさせてもらおう。
「それじゃ使わせてもらうね。えっと……確か道場はここからまっすぐいって突き当たりを右だったかな?」
僕のその、言葉に咲夜ちゃんは驚きの表情を見せる。
「ええ、すごい! なんで分かったの? もしかして噂に闘く超能力とかいうやつ?」
「いや、ただ単にここに稽古に来る途中見かけただけなんだけどね」
僕は苦笑してそう種明かしをする。
「それじゃ、僕はありがたく使わせてもらうことにするよ」
「どうぞ心ゆくまでご利用ください」
咲夜ちゃんはそういうと僕にブンブン手を振る。
僕はその姿に思わず微笑むと、そういえば一つだけいってきたいことがあったんだ、と思い出す。
「あの、ひとつだけお願いしたいことがあるんだけど、いいかな?」
「何だろ?」
その言葉に咲夜ちゃんはあごに手を当て、首をかしげる。
「できれば次から近づくときは気配を消さないでほしいんだけど……その、僕も緊張するし」
僕がそういうと、咲夜ちゃんは衝撃を受けたような表情をしてその場にへたり込む。って、
「ど、どうしたの? 何か僕悪いことでも言った?」
僕がそう聞くと、咲夜ちゃんはよろよろと立ち上がり、僕を見つめた。
「そうするのが普通ですよ、って今まで教わってきたんだけど……それってもしかして間違っているのかな?」
その言葉に僕のほうが頭が痛くなりその場にしゃがみこんだ。

その後咲夜ちゃんに色々と気配を消してはいけないわけについて話していたら結構な時間がかかってしまった。おかげで稽古をいったん中断したときから三十分もたってしまい、火照っていた体が冷えてしまった。
やっとたどり着いた道場は檜の香りが心地よく、清潔感に溢れていた。
僕はその道場に一礼してから一歩踏み入れる。
瞬間、体に沸き立つ高揚感を感じた。
なんというのだろうか、今まで旅先で立ち寄った道場の雰囲気自体が違う。
ピンと張り詰めた空気。
その中に馴れ合いなんて存在し得ない、異空間。
静謐な静けさが、ここが戦うものの場であることを教えてくれる。
立ち止まって深呼吸をする。
そうして道場の中央のほうに進み出てあたりを見回すと、ふと、道場の片隅に人影を見つけた。
「あれは……」
枯朝さんだった。
その手には一本の竹刀が握られ、じっとその竹刀を何かを思うような目で見つめている。
天下に名だたる白鳥家の道場だというのに枯朝さん以外には誰も居ない。
僕はその眼差しに声をかけてよいものか迷ったが、結局声をかけることにする。
「枯朝さん」
「……光か」
「この道場には白鳥家の方々以外は利用しないのでしょうか? 門下生の一人も見当たらないのですが……」
「ああ、それは門下生をとってねえからだ」
竹刀から視線をはずして僕のほうに向き直った枯朝さんが答える。
「門下生がいない?」
「そのとおりだ。もともと薙刀なんて男がやらねえものだからそういう奴は少なかったそうだが、今のおふくろの代になってからは門下生を一人たりとも取らなくなったんだ。なんでも本人が言うには『本当に強くなりたいという願望と、何者にも負けない心の強さの無い人間以外はとりません』ってことらしい。俺だって昔は家のやつらに才能があるって言われたけど、おふくろは俺が女じゃないって理由だけで薙刀をやらしてもらえなかったんだ。まあ、それで俺は剣道をやってたんだがな……。とどのつまり、ハードル高いんだよ。うちはな。いまじゃあ正式に白鳥の流派を継ぐと期待されているのは咲夜だけだろうな」
「咲夜ちゃん強いですもんね」
僕の言葉に枯朝さんは大きく額く。
「ああ。それに映夜は誰よりも心が強い。普段はあんなに間延びしているが、挫けるところなんて見たことがねえ。そういう子に育つことをばあさんたちは見抜いていたんだろうな」
「ばあさんたち?」
僕は枯朝さんの言棄の意味がよく分からなかった。
「そうか、説明しねえとよくわかんねえだろうな。少し長い話になるけど、いいか?」
僕はその言葉に首をたてに振る。
枯朝さんはそれを合図に話し始めた。
「俺の名前は枯朝だよな。正直なところ、初めて名前聞いたとき変だと思ったろう? それには理由があるんだ。白鳥家では代々名前をつけるのはその子供が生まれたときの当主なんだ。変わった習慣だが、俺たちもその例から外れることはなかった。そのときの当主、白鳥銀、つまり俺のばあさんだが、その人は予知能力があった」
「予知能力?」
なんだか胡散臭い話になってきた。
僕の疑問符の付随しているような顔を見て枯朝さんは苦笑した。
「まあ普通は信じられねえわな。あれは予知能カっていうより、勘が優れていたっていつたほうがただしいかもしれねえ。とにかくばあさんは先を見通せた。そんでもって俺が生まれると分かったとき、一族最高のものが生まれると見えたらしい。そして名前も用意した。『咲夜』だ」
僕はその言葉の続きを黙って待った。
「知っているかもしれねえが、白鳥家の家紋は月見草だ。別名大待宵草というこの花は夜に美しく咲く。朝や昼だって咲いているが、夜の美しさには敵わねえ。だから最も白鳥家に相応しい名前なのさ。しかしばあさんの予見は外れた。生まれたのが男だったんだからな。これじゃあ白鳥家は継がせられねえ。そこでばあさんが俺につけた名前が枯朝だ。咲夜とは反対の意味の、な。自分の予見が外れたから白鳥家は衰退していくとでもおもったのかね。そんなふうに名前をつけやがった。もちろん名前なんてものはただの称号だと俺はおもつているから恨んでなんかいねえよ。もちろん親がつける名前全てに願いがこもってねえなんていわねえけど、よ。ばあさんの予見は外れたように見えたが、そんな.ことは無かった。六年後に女の子が生まれたんだ。それが咲夜さ。ばあさんの予見どおり素晴らしい才能を持っていた。俺だって人よりは才能があると思っているが、あれは桁違いだ。天才、とでもいえばいいのかな? ばあさんたちじきじきに小さい頃から稽古させられて、今じゃ大人にすらまけねえ。なんにせよ未来が期待されて幸せなことだ……」
「それはちがいます!」
気づいたら僕は大きな声で叫んでいた。
枯朝さんはびっくりして僕を見つめる。
「あなたは咲夜ちゃんのことをわかっちゃいない。咲夜ちゃんは寝言でこういっていました。『嫌だ』って。本人は表に出さないけど彼女は苦しかったんだと思います。一族の期待という足かせをほめられ、自由に動けない苦しさが枯朝さんに分かるんですか? 外の世界も見れず、ただ機械のようにいうことを聞くだけの生活がどんなに空虚なものか枯朝さんに分かるんですか!」
そうだ。咲夜ちゃんは僕と同じだ。
ただ一族のために修行し、一族の掟という鎖に縛られてすごしてきたのだ。
いつかの言動でも分かる。
普通はしない、人に近づくときは気配を消すということ咲夜ちゃんの常識となってしまっている。
外も知らずに、ただ単に一族の言いなりになってきた弊害だろう。
「……すまねえ……ちょっと調子に乗りすぎた」
その様子に僕ははっとなる。
頭に少し血が上っていたとはいえ、枯覇さんの心の中も知らずに勝手なことを言ってしまった。
たった一人の妹なのだから枯朝さんが本気でそんな風に思うはずが無いというのに。
「いえ……僕もいいすぎました」
僕はそう頭を下げと枯朝さんは苦笑する。
「いいんだよ。お前は間違っちゃいねえ。俺が悪かったんだからよ、気にすんな」
そうわれたものの、僕はどんな顔をしていいかわからない。
「悪い、なんか辛気臭くなっちまったな。んー、なんかこう楽しい話でもないか?」
枯朝さんは大きな声でそういうとわざとらしく肩をすくめた。
僕はその姿を見て苦笑する。
僕を慰めようと居てくれているのだろうが……まったく、不器用な人だ。
「そうですね……ではお聞きしますが、枯朝さんはここで何をなされていたんですか?」
僕がそういうと、急に枯朝さんは曇った顔になった。
何かまずいことでも聞いてしまったのだろうか……
「……気づいたらここに来て竹刀を見ていたんだ」
枯朝さんは曇った顔をしながらもそう答えてくれた。
「はは……変だよな……剣を握る資格が無いと思っていても、気づいたらここに来てこんなことをしているんだからよ……」
枯覇さんはそう自嘲気味に笑うと、また竹刀に視線を落とした。
その目は悲しげに細められている。
何か聞かれたくないほどの、枯朝さんの心をここまで閉ざしてしまう出来事が過去に何かあったのだろう。
僕に何かできることは無いんだろうか。
何か……
「……枯朝さんは剣道がお好きなんですね……」
気づいたらそんな言葉が口をついて出ていた。別に何か思うところがあって言ったわけじゃない。
ただ枯朝さんの話を聞いていたらそう感じただけ。
「何?」
「だってそうじゃないですか……枯朝さんは剣道が好きなんですよ。過去に何があったかはわかりませんが、あなたは剣道が好きなんですよ。……じゃなきゃ気づいたらこんなところにきているなんてありえません! 自分の好きな道をもう一度……」
「それでも!」
枯朝さんは僕の言葉をさえぎって言う。
その叫びはまるで慟哭のようで僕は言葉を噤まざるを得なかった。
「それでも、駄目なんだ……。今の俺には剣を振るう資格がねえんだよ……」
枯朝さんはそういうと、僕に背を向けて道場から出て行った。
僕は何もいえず、ただ呆然と枯朝さんの背中を見送ることしか出来なかった。

枯朝さんが出て行った後、僕はここに来た本来の目的を思い出して竹刀を構えた。
ひとまず枯朝さんのことを頭から追い払い、稽古に専念することにする。
他の事を考えながらの練習などもってのほかだからだ。
僕は頭を真っ白にしてひたすら竹刀を振り続けた。

いつもの練習メニューを一通り終えた頃には太陽はとっくに真上を過ぎていた。
僕は汗を拭うと、ふうっと息をつく。
いつもの練習メニューといっても簡単なもので、普通の素振り五百回。片手素振り三百回。切り替えしのモーションを十セット。道場にあった、打ち込み用の人形(僕の知っている人はこの人形をマシーンと呼んでいた)に面打ち百回。小手打ち百回。胴打ち百回。連続技(篭手面打ち、篭手胴打ち等)を五十回ずつといった内容だ。
どんなときも基本がしっかり出来ていないと意味が無いので、練習メニューはいつもこんな感じだ。
ちなみに突きの練習をしたら人形が吹っ飛んでいってしまったのでやめた。
道場を出ると、僕は水道(井戸)までいって顔を洗った。
一応今朝井戸を使わせてもらいます、と断りを入れておいたので問題は無いだろう。
顔を拭いて後ろに誰かの気配を感じたので振り向くと、木の陰に隠れて薙刀を持ってこっちをじいっと見ている咲夜ちゃんの姿があった。
闇夜の中で見たら卒倒しそうな感じだ。
多分本人は隠れているつもりなのだろう。
「何か用? 咲夜ちゃん」 とりあえず声をかけてみる。
何故だかそのままにしておかないで、構ってあげなければという気持ちになったのだ。
なんだか愛玩動物の飼い主になった気分。
咲夜ちゃんはその言葉にぴくっと反応すると、前に出てきてにっこりと笑った。
「私と薙刀の手合わせをして」
「……はい?」
咲夜ちゃんの口から突然出てきた、あまりに不条理で前後との関係(前後の発言無いけど)が全く見出せない発言に、僕は思わず間の抜けた声を出してしまった。
咲夜ちゃんはそんな僕の反応を見ると、潤んだ目をして僕の顔を覗き込んできた。
「……ダメ?」
「うっ……」
こ、この攻撃は反則である。
僕は今まで同年代の女の子となんて話したことなど殆ど無いため……はっきり言って女の子に免疫が無いのだ。
だ、だからこういう行動をされると、思考回路が破綻する……破綻……す……
「よ、よろこんでお受けいたします……」
気づいたら、そう、言っていた。

このときから世界中で僕にとって最も恐ろしい敵は咲夜ちゃんとなったのかもしれない。

咲夜ちゃんと僕は場所をもうちょっと広い場所に移すと、お互い得物を構えた。
防具は一応つけてあるが、防具は達人の一撃の前ではほとんど意味をなさないので少し不安ではある。
ちなみに僕はいつもつけない、すね当てをつけているため動きに支障をきたしそうだ。
道場で試合してもよいのだが、はっきりいうと狭い。
いや、ここの道場は普通の道場よりも圧倒的に大きいのだが、やはり部屋という限られた空間では自然と自分の動きに部屋という枷がかかるのだ。
それで、外でやろうと咲夜ちゃんに提案したところ、あっさり承諾がもらえた。
「それでは……お願いします」
咲夜ちゃんと向き含うと、僕は軽く一礼した。
顔を上げてゆっくりと竹刀を構えると、静かに咲夜ちゃんの目を見据えた。
咲夜ちゃんはいつもの明るい印象と変わって、まるで得物を見つけた鷹のように目がらんらんと輝いている。
僕はいつも試合でとる間合いより遠く闇合いを取る。
というのも、咲夜ちゃんの構えているものは練習用の棍ではなく、白鳥家が作った練習用薙刀とでも呼ぶものだった。
薙刀の柄に、赤樫で出来た刃をつけている。
例えて言えば柄は真剣のもので、その先は木刀だと思ってもらえばいい。
しかもその薙刀は普通のものとは違っていた。

薙刀には大きく分けて二種類がある。
一メートル前後の薙刀は、小薙刀と呼ばれている。
歴史上で最も使われたものだ。
そしてもう一つが大薙刀と呼ばれるものである。
日本の南北朝時代に初めて登場したもので、その大きさはなんと三メートルにもなる。
そこまで大きくなると室内で振り回すことが出来ないので、普段はこういったものを目にすることは無い。

しかし僕の眼前にはそれがある。
咲夜ちゃんの構えている薙刀は優にニメートル以上はあるだろう。
僕が今まで経験したどの間合いよりも長い。
もちろん飛び道具の鎌とか弓は除くけれども。
加えて僕の今握っている竹刀は一メートルちょっとしかない。相手のほうがニ倍以上も間合いが長いのだから、近づくことすらままならないだろう。
ちなみに刀の中では最も長いとされている、かの有名な佐々木小次郎の物千し竿ですら全長四尺六(百三十八センチ)とされ、大薙刀の二分の一以下でしかない。
僕は久しぶりに体が高揚感を覚えていることに気づいた。
まだ仕合ってすらいないというのに、だ。
僕はじりじりと闘合いを調整しながら隙をうかがう。
咲夜ちゃんもゆっくりとこちらの様手をうかがっているようだ。
僕は正眼の構え。
対して昨夜ちゃんは下段の構えを敢っている。
やがてその膠着状態が破れた。
咲夜ちゃんがたった一歩だけ踏み込み、僕の予想をはるかに越えた位置から疾風のような遠さで的確に僕の右すねを狙ってきた。
基本的に剣道には胴より下方の防御方法というものが存在しない。
おそらく僕といえどそこの防御が弱いと思っての攻撃だろうが、今まで色々な相手と試合をしてきた僕はその対処方法にもなれている。
僕は胴の防御の要領で初撃を受けると、自分の間合いに踏み込んで返す刀で咲夜ちゃんの面を狙う、咲夜ちゃんは初撃を受けられたことにも全く動じず、冷静に半身をそらし、僕の竹刀は打突部位を外れる。
薙刀という武器において接近戦に関しては剣術のほうが上を行くはず……!
そう思った、しかし刹那、僕は体の中央あたりを風を切る流れを感じ反射的に胴をかばう。
直後咲夜ちゃんの薙刀の柄が僕の胴の辺りで竹刀とぶつかった。
重い一撃を竹刀が受けきれずに竹刀を構成する竹の一本に大きく亀裂が走る。
すごい。
思わず僕は感嘆した。
半身をずらして、さっきのように避けながら胴を狙うことは普通なら出来ない。
僕の攻撃をしのぐことにだけ神経を集中するからだ。
加えて薙刀の柄の部分を使ってくるとは……
これは予想以上に手ごわそうだ。
僕は攻撃を受けた状態のままさらに深い位置へ、相手の懐へと滑り込む。
薙刀は刀に比べて懐に入られると弱い。
それをいくら先ほどのように柄でカバーできるといっても、これほど長い薙刀ともなると柄を使うときにはコンマ何秒かのタイムラグが生じる。
僕はその特性を生かし薙刀の死角から逆胴を狙う。
しかし決まったと思った一撃は、誰も居ない空を切る。
あの数瞬で避けた!?
体勢を崩した僕は、次に来るであろう攻撃にそなえ、防御に全神経を集中する。
思ったとおり数瞬遅れて重い一撃が竹刀を震えさせた。
僕はその攻撃の重さに、追撃が来ないと判断し、体を咲夜ちゃんに向きなおさせると間合いを大きく取る。
ほんの数十秒程の攻防だが昨夜ちゃんの強さが分かった。
そのときそのときの的確な判断に加え、技量も完壁だ。
背が小さいという欠点はあるものの、それを十分に補うだけの強さがある。
僕は大きく呼吸すると、竹刀の構えを上段へと変えた。
このままでは打ち合いが続くだけで勝負がつかないかもしれない。そう思った僕は防御を捨てた。
古来より戦場では相手より数瞬でも遠く一撃を決めたものが勝つ。
その言棄淋脳裏に浮かぶ。
昨夜ちゃんは僕の様子を見て構えを脇構えに構える。
お互い、次の一撃で勝負を決めるつもりだ。
脇構えは攻撃的な構えではあるが、上段の構えほどではない。
しかし、相手が上段の構えの場合、脇構えは一撃必殺の構えとなる。
なぜなら単純に、上段は面だけを狙う技で(特殊な場合篭手も狙うことはあるが、その場合攻撃が遅い)構えである分、胴とすねの防御は捨てている。
対して脇構えは相手の逆胴やすねを狙う構えであり、面の防御は捨てているも同然だからだ。
僕の面が先か。
咲夜ちゃんの胴が先か。
僕たちはお互いを凝視したまま動かなかった。
勝負は一瞬。
無限にも思える時間が流れたとき、庭のししおどしが音をたてた。
「せいっ!」 「やっ!」 僕と咲夜ちゃんはその音を合図に疾風、いや、光のごとき速さで間合いをつめた。
そしてまさに一撃を放とうとした瞬間僕の目の片隅に映ったものがあった。
「っ!」
僕は瞬間、攻撃を諦めて光をも越える速さで咲夜ちゃんの逆胴を全力で受け止める。
「!?」
咲夜ちゃんが驚愕の表情を見せ、戦いの緊張を解かずに僕に疑問のまなざしを向けてくる。
僕はさっき視界に移ったものをあごでしゃくる。
咲夜ちゃんはゆっくりとそちらに規線をうつした。
「……アキアカネ……?」
咲夜ちゃんの視線の先にはつがいのアキアカネが飛んでいた。
このあと生まれるであろう新たな命を、もしあの時攻撃をやめていなかったら僕達は散らしてしまっていただろう。
「無駄な殺生はしないって、祖父との約束なんです」
その言葉に咲夜ちゃんは地面に視線を落とした。
「……もしかして、今までこの子達をかばいながら戦っていたの?」
僕は何を言っているのか分からず、地面に目を落とすと、僕は咲夜ちゃんが何を言っていたかを理解した。
そこには蟻の行列が出来ていた。
将棋の後枯朝さんの投げた柿の種に群がっている。
「あー、うん。そうだね。で、でも本気で戦わなかったわけじゃないよ?」
僕はもしかして咲夜ちゃんの気を悪くしたかと思って慌てる。
しかし咲夜ちゃんは気を悪くしてなどいなかった。
咲夜ちゃんは溝面の笑みで顔を上げたのだ。
「やっと見つけた」
「……へ?」
咲夜ちゃんの前後の繋がらない言葉に僕は疑間符を浮かべる。
「あなたならお兄ちゃんのことを頼めるかもしれないね」
「枯朝さんのことを?」
僕の言葉に領くと、咲夜ちゃんはそのまま深々と頭を下げる。
「今日は練習に付き含ってくれてどうもありがとう! とっても楽しかったよ」
「それは……どういたしまして」
昨夜ちゃんはにっこちと笑うと、いきなり僕の手を握ってきた……ってえええええええっっっっ!?
一瞬にして顔が沸騰するのを感じる。
「ささささささささ咲夜ちゃん!?」
「今日の夜、話したいことがあるから部屋で待っててね」
咲夜ちゃんは一方的にそういうと、手を離して走り去っていった。
まだ心臓がばくばく高鳴っている。
僕は勝負で流れたのではない汗を拭うと、咲夜ちゃんの去っていったほうを見つめ、
「……もし試合中に手を握られていたらまずかったかもしれない……」
考えることすら恐ろしい事を口にした。