剣の先に映るもの:五章



五章 その夜、僕が部屋で寝るための準備をしていると、約束通り咲夜ちゃんが訪ねてきた。
咲夜ちゃんはいつになく真剣な表情で僕の前に座ると、僕に話し始めていいか目で訪ねてきた。
僕はそれに軽く頷く。
「まず確認しておきたいんだけど、光ちゃんはお兄ちゃんが道場で竹刀を見つめてたのを見たんだよね?」
「はい、道場に行った時に」
僕はそのときのことを思い出す。
竹刀を握って何かを考えている枯覇さんの姿を……
「あともうひとつ聞きたいんだけど、もしかして光ちゃんはお兄ちゃんが戦ってるのを見たことある?」
「それは……あります」
初めて枯朝さんにあつたときのことが鮮明に思い出された。
一瞬にして何人もの人をたった一本の木の枝で昏倒させた姿を。
「率直に言って、そのときのお兄ちゃんの剣をどう思った?」
「どうって……」
強くて美しくて、それでいて、なんだか……
「……なんだか寂しそうな感じでした」
そうだ。
確かにあの時は強い人に会えたという喜びのあまりそのことを忘れてしまったが、確かにあの時僕は枯朝さんの剣、心の剣といったほうがいいだろうか、それが寂しそうだったように感じたのだ。
例えていうならば何も見えない霧の中で向かうべき道すら分からず、歩くということをやめてしまったようだった。
そして僕はそれを感じたから、それを何とかしてあげたいと思ったから枯朝さんについてきたのだ。
「……お兄ちゃんがそんな風になってしまった原因、知りたい?」
ふいに咲夜ちゃんがいつもと違う真剣な口調になる。
僕はそのことを感じながらも、それを知りたくて小さく頷いた。
咲夜ちゃんは僕が頷いたのを見ると、静かに潜々と語りだした。
「お兄ちゃんは昔、誰よりも強くなりたいって思っていたの。白鳥家の『男は薙刀を学ぶことならず』っていう家訓があったから本当なら白鳥家で武道を学ぶことはそこで諦めるはずだったんだけど、お兄ちゃんは違った。『薙刀がだめなら剣道で一番強くなってやる』って言って、ひたすら剣道を練習したの。どちらかというとそれは剣道というより、剣術に近いかな? それで幾年か経ったとき、お兄ちゃんはおばあちゃんに勝負を挑んだの。勝負はいいところまでいったらしいけれど、結局は勝てなかった。その時ばかりはさすがにお兄ちゃんも落ち込んでたかな。そんなときにお兄ちゃんを励ましてくれた人がいたんだ。その人の名前は白鳥菫。私とお兄ちゃんのお姉さん」
「……?」
姉?
確かこの屋敷ではお姉さんがいたという気配は全く無かったのだが……
咲夜ちゃんは僕が疑問符を浮かべているのを無視して続けた。
「菫お姉ちゃんは、お兄ちゃんにとって最も大切な人だったの。今までの努力が実らなかったことによって落ち込んでいたお兄ちゃんはそこで自分の目的を見つけたの。『何があってもこの人を守る』って言ってた。ひと時も離したくないって言ってお姉ちゃんの写真をロケットに入れて肌身離さず持ってた」
その言棄に僕ははっとしてポケットを探る。
するとそこに枯朝さんと将棋をした後に見つけたロケットが入っていた。
そうだ……会ったら渡そうと思っていたのにあんなことがあったから忘れてしまっていたんだ。
僕はゆっくりとそのロケットの蓋を開ける。
そこにはあの美しい女性が写っていた。
写真の中の女性はあいも変わらず何かを見下ろしている。
そのときは気づかなかったが、ロケットのふたの裏には小さくかすれた文字で『菫』と書いてあった。
「……ロケットから写真を取り出してみて」
僕は頷くとロケットから写真を取り出し、折りたたまれていた写真を元に戻す。
するとさっきまでロケットの縁に隠れて見えなかった部分があらわになる。
「……枯朝さん」
僕はかすれた声で呟く。
その写真の見えなかった部分の女性が見下ろしていた部分に小さな頃の、枯朝さんに違いない少年が写っていた。
「その写真は菫お姉ちゃんか生きていた頃にお兄ちゃんと撮ったものなの。お兄ちゃんは菫お姉ちゃんが自分をしっかりと見ていてくれる、ってことを忘れないためにロケットに入れてたんだよ。……菫お姉ちゃんが死んじゃってからは自分をロケットに隠して菫お姉ちゃんだけが見えるようにしたんだ……。菫お姉ちゃんを守れなかったって自分を責めて……自分がそこにいてはいけないと思って……」
「何故、菫さんは死んでしまわれたのですか?」
それを聞くことは失礼なことだとは分かっていた。
でも僕は聞かなければならないだろう。
「……菫お姉ちゃんは……ガンで死んじゃったんだ。最後は私とお兄ちゃんの手を握ってくれた」
「……お医者様には行かなかったのですか?」
僕の言葉に咲夜ちゃんは辛そうな顔をしながらも口を開く。
「もう手遅れだった。病院にいったときには体のあちこちに転移していたらしいの。菫お姉ちゃんは自分が辛かったことを隠していたんだ」
「……なんでですか? なんで話さなったんですか?」
僕はそのことに驚いて訪ねた。
すると咲夜ちゃんは今まで見せたことのない、なんともいえない、悲しそうな笑みを浮かべた。
「白鳥家のお祖母ちゃんは厳しい人だったわ」
僕はいきなり咲夜ちゃん言い出したことの意図が読めずに首をひねる。
「菫お姉ちゃんは私よりも、誰よりも強かったの。当然おばあちゃんはお姉ちゃんを次期当主にしようとして無理を強いたわ。菫お姉ちゃんは家の期待を裏切りたくない一心で自分の体を酷使させて修行に打ち込んだの。最も信じられなかったことは、おばあちゃんも菫お姉ちゃんの体調が悪いことを知っていたらしいの」
「……そんな……なんで……」
僕はその言葉に愕然とした。
僕の言葉に昨夜ちゃんは普段からは想像できないような冷たい笑みを浮べた。
「これが菫お姉ちゃんの無理をしてでも期待にこたえたいっていう意図を汲んでいたというなら分かるけど、本当の理由はそんなことじゃなかった」
咲夜ちゃんはそこで言葉を切ると、僕のほうを見つめてきた。
「光ちゃんはおばあちゃんの予見の話を知ってる?」
突然なその質問に僕は頷く。
枯朝さんと話したときに聞いたあのことだろう。
「じゃあ、そのとき白鳥家の一族最高のものが生まれるという予見をした話を知っている?」
「……知ってる」
枯朝さんからきいた話によると咲夜ちゃんがそうだという。
それは間違っていないだろう。
「予見されたのは私じゃないの」
「……え……?」
僕はその言葉に呆然とする。
咲夜ちゃんが予見されたものじゃ無い?
ということは話の流れからすると……
「予見されたのは菫お姉ちゃん。私はその予見の失敗を埋めるための単なる代え駒なの」
その事実に僕は今度こそ言うべき言葉を失った。
だとしたら咲夜ちゃんは今まで祖母一人の予見という体裁を守るためだけに過酷な修行をさせられたのだ。
咲夜ちゃんはそんな僕を見ながらそのときの様子を思い出したのか、悲しそうな顔をする。
「……それでさっきの話に戻るけど、菫お姉ちゃんが過酷な修行をさせられた理由はもっと単純。おばあちゃんは絶対と信じていた自分の予見が間違っていないと証明するためだけに無理をさせたの。少しでも休めば努力していたお兄ちゃんに菫お姉ちゃんが抜かされるんじゃないかと思って、ね。皮肉だよね。菫お姉ちゃんを守ろうとしたお兄ちゃんの努力こそが菫お姉ちゃんを苦しめていたんだから」 僕その書葉を聞いて既視感を感じた。
まるで白鳥家の祖母は僕にとっての塔馬家だったからだ。
違うのはその教えを受けていた子が反発したか、していないかだけだ。
「お兄ちゃんはそれで自分を責めたの。そして大切な人の命一つすら守れない自分は剣を振る資格すらないと思って、それ以来剣道をやめたの。……病気なんていう剣では守れない形の無い相手に負けたっていうのに、自分を責めたの。それでもむお姉ちゃんの写真を持っているのは未練があるからなんだと思う。……私は確かにお姉ちゃんのことをお兄ちゃんに忘れてほしくはないけど、菫お姉ちゃんは死んじゃったんだよ? 今この世にいない人に縛られて生きるなんて聞違っていると思うの。おそらく天国のお姉ちゃんも今の枯朝さんを見てそう思ってると思う。……お兄ちゃんはそれ以来ずっと心の中で待ってるの。自分が元に戻れるきっかけを」
咲夜ちゃんはそう全てを話すと、決然とした目で僕を見上げてきた。
心なしか目が潤んでいるように見える。
「お願い。お兄ちゃんに剣の素贈らしさをもう一度教えてあげて。私には薙刀のことしか分からないけど……光ちゃんなら剣の素晴らしさを知っているのでしょう? 剣には守れるのもがあることを。命だって、守ろうと思えば守れることを。そして、剣の先に見えるものを教えてあげて」
このときだけは、僕は咲夜ちゃんの顔が間近にあるのにもかかわらず、いつものように取り乱したりせずに真正面から咲夜ちゃんを見て、ただ一言だけ口にした。
「……必ず」


僕は枯朝さんを探して家の中を回った。
枯覇さんの部屋。
居間や台所といったところまで。
しかしそのいずれにも枯朝さんはいなかった。
「あと、いる可能性のある場所は……」
そこまで考えて僕はある結論にたどり着いた。

「やっぱりここにいたんですね」
僕が道場の敷居をまたぐと、そこには竹刀を手にした枯朝さんの姿があった。
考えてみればものすごく単純で、当たり前のことだ。
僕が声をかけると、枯朝さんはゆっくりとこちらを振り向いた。
「光か……」
「はい。あなたに話があってきました」
僕淋そういうと、枯覇さんは呆っとしていた表情を引き締めて真剣な表惰になった。
気づいたのだろうか。
僕がまとう雰囲気から何かを。
僕が枯覇さんのことを「あなた」と呼んだことに篭められた意昧に。
「……なんど言っても無駄だ。俺はもう剣道をやるつもりはねえよ」
枯朝さんは僕が言おうとしたことに気づいたようだ。
しかし僕の決意の深さまでは分からなかったらしい。
「前にも言ったように俺には剣遺をやる資格が」
「怖いんですか?」
僕は枯朝さんの言葉をさえぎる。
「……なんだと……?」
枯朝さんが殺気のこもった目で僕を見据える。
しかしその程度では僕は屈しない。
「怖いのか、と聞いたんです。僕と勝負してまた負けることが。そしてもう一度負けたらもう誰も慰めてくれる人はいないのですからね」
僕の言葉に枯朝さんは渋面を作り「咲夜の奴……」と小さく呟いた。
「菫さんのことはしょうがなかったんです。天命というものは人の力では変えられないものなんですから」
僕がそういうと、枯朝さんは感情を爆発させるかのように激昂して叫んだ。
「貴様に何が分かる! 大切なものを守れなかった悲しみが分かるとでも……」
「いつまで自分の惰けない遇去に縛られるつもりだ! 白鳥枯朝あっっ!!」
僕はその言葉をさらに超える大声で叫んだ。
道場に張り詰めていた空気が、揺れる。
枯覇さんは僕の豹変ぶりに言葉を飲み込んだ。
僕はいくらか音量を下げると続けた。
「人はいつか必ず死ぬものです。それが遠いか早いかだけの違いでしょう。たった一つのものを守れないからって、他のものを守らなくていいなどという理屈が通用すると思っているんですか? そんなのはたんなる甘えです。兄である貴方がそんなだから咲夜ちゃんは頼れるものがないんですよ。たった一人の兄であるというのに、妹が苦しんでることを無視するんですか? なんにせよ、僕があなたに言うことは一つだけです」
僕はそういうとゆっくりと背中に背負った竹刀袋から竹刀を取り出す。
「剣というものは壊すためのものだが、守ることも出来る。大切なものを」
竹刀を握り、枯覇さんのほうに切っ先を向ける。
「それでも守れないものはあるが、自分で、自分自身で今守れる者だけでも守り通すんだ」
ゆつくりと左足を引く。
「そして、思い出せ。自分が剣の先に見えたものを」
正眼の構えを取り、相手を視線で貫く。
「俺が……剣の先に見えたもの……」
枯朝さんはさっきまでとは明らかに違う様子でゆっくりとこちらに竹刀を向ける。
その目は何かを取り戻そうとしているように迷いが見える。
僕が言うべきことは全て言った。
あと……あとひとつ、何か後押しするものがあれば……
刹那、対峙していた僕と枯朝さんの間を一条の銀光が走った。
「!?」
僕と枯朝さんはいきなりの出来事に反応できず、目の前を過ぎ去ったものに目を向ける。
「……矢文?」
そこには紙がくくりつけられた一本の矢が道場の床に刺さっている光景があった。
僕は近づいてそれを床から引き抜くと、しばってあった紙を解いて広げた。
枯朝さんもよってくると一緒に覗き込む。
そこには乱雑な文字で簡潔な文が連ねてあった。
『白鳥枯朝、貴様の妹は預かった。返してほしければ塔馬光とかいうガキと一緒に裏の山まで来い。必ず二人だ。もし遅れたり、二人以上で来たらどうなるかは分かっているだろうな』
僕と枯朝さんは顔を見含わせると、頷きあい、竹刀を手に持ったまま駆け出した。